ミニマムコラム

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ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

こだわりを捨て出会えた一足、ADOLFO DOMINGUEZのシューズ

靴

念願だった新しい靴をようやく手に入れた。僕は今現在、外出用の靴は三足しか持っていない。うち二足は革靴。もう一足はスニーカーだ。そのスニーカーがずいぶんとくたびれてきたのは、もう数年前のこと。色あせは激しいし、穴も空いてきた。そんな状態だから新しい靴を買おうとことあるごとに物色していたのだが、なかなかこれぞと思うものに出会えなかった。

 

 

僕が狙っていた靴の条件は以下の通り

  • 青色で光沢があるもの
  • クロコダイル的な編み編みの模様があるもの
  • ビジネスもプライベートもOK

 

夏に革靴は重い。夏用に履ける一足が欲しいと考えていた。上記の条件に合いそうな靴を片っ端から試着させてもらったこともある。どれもしっくりこなかった。青は光の加減によっては黒っぽく見えるのだ。黒にみえる靴は履きたくない。もっと明るい青と考えると一気にカジュアルさが増す。

 

「青にこだわることが間違っているのかなぁ」

 

そう思っていた矢先に冒頭の写真の靴に出会った。ADOLFO DOMINGUEZというブランドのものだ。WEBサイトを見ると洋服のデザインはいたってシンプル。シンプル過ぎて逆に難しいかもしれない。小物を使うなり、他のブランドとあわせるなりしないと野暮ったくなりそう。靴はどれもかわいい。財布もシンプルなデザインでいい。

 

僕が買った靴は、青へのこだわりを捨てたから出会えたのかもしれない。なんといっても特徴的なのは一部がメッシュになっているということ。夏用にはピッタリでこれ系の靴にしては見た目にも涼しい。去年まではつま先部分も全てメッシュだったらしい。それだったら僕は買わなかった。足先が見えるのは少しかっこ悪い。2017年の今だから買えた一足だ。

 

靴

 

それにこの靴は結構軽い。軽さも僕にとっては重要なポイント。ボロボロになった今のスニーカーはとにかく軽くて履きやすかった。それに比べると重さは増すが、それでも軽い部類の靴だと思う。ビジネスでも履けそうだし、ロールアップにすればカジュアルにもなりそう。 茶系の靴だとどんな格好にも合わせやすいのもいい。へんに青色にこだわることなんてなかった。あのこだわりはいったい何だったのだろうか。

有吉佐和子「恍惚の人」を読んでの感想

恍惚の人

人は誰でも年を取る。どんなに立派な肩書があっても、どんなに沢山のお金を持っていても同じように時間は進み、歳を重ねやがては死ぬ。その直前、人はどのようになるか。老人問題を描いた一冊。今から45年も前に取り上げられたこの問題はよりいっそう深刻になっている。

 

恍惚

  1. 物事に心を奪われてうっとりするさま。
  2. 意識がはっきりしないさま。
  3. 老人の、病的に頭がぼんやりしているさま。有吉佐和子著「恍惚の人」(昭和47年)により流行した。

出典:恍惚(コウコツ)とは - コトバンク

 

茂造の妻が亡くなったあとに茂造の認知症が発覚する。茂造は頻繁に徘徊し、家族はそれを追いかける。「腹が減りました」といっては食事の時間にも関わらず食べる。放っておくと鍋いっぱいの煮物を平らげてしまう。「強姦がきた」といって自分の息子から逃げる。なぜか嫁の昭子だけは認識できる。誰が面倒をみてくれるのか本能的にわかっているのかもしれない。

 

少し目を離したことがきっかけで茂造は風呂で溺れる。浅い風呂で溺れることを不思議がる家族。茂造は高熱を出し三日三晩うなされるが、なんとか回復する。しかし体力は格段に落ちていて徘徊することもなくなったし、ほとんどしゃべることもなくなった。昭子をみればニコリを微笑む。それが意思疎通。頑固で笑顔のひとつも見せなかった茂造がなんとも穏やかな人間になった。まさに恍惚の人。甲斐甲斐しい家族の介護が産んだ結果かもしれない。最後の場面。「ママ、もうちょっと生かしといてもよかったね」という息子の言葉に昭子は涙する。

 

茂造が「老人クラブは年寄りばかりだから行きたくない」という場面がある。僕のおばあちゃんも全く同じことを言ったことがある。入院していたときのことだ。

 

「ここはね、年寄りばっかり。早くうちに帰りたいわ」

 

自分をなんだと思っているんだろうねと身内で笑ったことがある。

 

昭子の息子、敏は両親にこんなことを言う。 

 

「パパもママも、こんなに長生きしないでね」

 

早く死んで欲しいとは思わないが、長く生きられても困る。これが本音ではないだろうか。

 

この本を読み終えたばかりの夜。僕は夢をみた。そこには母がいた。夜中だというのに必死に米を研いでいる。バケツやら鍋やら、そこら中にあるものに米を入れては必死に研いでいる。「お米を研がなくちゃ」母は呆けてしまったのだろうと僕は理解した。そんな母の姿をみて僕は悲しかった。目が覚めて、現実にはそんな母の姿も見ることができないということを改めて実感すると、もっと悲しかった。

 

僕が久々にムカついた理由

久々にムカついた。友達とのことだ。だけども、こんなことで縁を切るのも大人げない。しかも社会人になってからの友達、仕事とは全く無縁の友達だから大切にしたい。その一心でグッと我慢した。口を開くと大人げない反論をしてしまいそうだったので平常心を取り戻せるまで「少し待って」と時間をもらった。そうして、まあ、なんとかいつも通りの感じでその日を終えた。だけども思い出すとどうにも納得いかない。なので、このブログで気持ちを吐き出すことにする。

 

その日は友達と食事の約束をしていた。食の感覚が合うので一緒に食事をするのは楽しい。店は毎回その友達に選んでもらっていた。今回もそうした。「どこがいい?」「えーっと、名前はわからないけど前回話題に出たお店がいいかな」そんな曖昧な記憶で僕はお店を選択した。曖昧なやり取りを何度か続けた後、友達はお店がわかったらしい。「わかりました」というメールでその時のやり取りを終えた。

 

しかし、その後の詳細がわからない。お店の名前さえもわからないでいる僕。でも、まあ、メールの返信が遅いのは友達のデフォルトだし、いつもこんな感じなので約束をした日が近くなるまで放っておいた。しかし、前日になっても連絡はない。僕の方からメールをした。詳細を教えて下さいと。当日になっても返事はこなかった。昼休みに再度メールをした。連絡お待ちしておりますと。約束の三時間前になってようやくメールが届いた。「18時45分に駅のなんとか口に集合」と。ここまでのやりとりはいつものことなのでムカついてはいない。約束の三時間前にようやくメールが届いたのには少々呆れたけれど。

 

 結果、僕はその時間に間に合わなかった。20分ほど遅刻した。その間に友達からは二度電話があった。「いまどこ?」「急いでほしいんだけど」そんなこと言われても僕は電車の中にいたからどうにもならない。しかもタイミングが悪いことに電車の間隔調整とやらで小刻みに発車を遅らせるのだ。ようやく待ち合わせに到着するも友達の姿は見えない。電話をしても電波の届かないところにいますといわれる。ウロウロ探し回りようやく発見。木陰に隠れていた。急いでいるっていうんならもっと見つけやすい場所にいろよ。僕はこの時点でちょっとだけムカついた。

 

すぐにタクシーに乗るように急かす友達。「電波の届かないところにいますって言われたんだけど」という僕に「そんなことはいいからさ」と返させる。はぁ?さらに遅れる状況を作り出しておいてその態度?ムカつき度が増す。そして僕は友達から責められることになる。そこの店はシェフひとりでやっているから遅れるわけにはいかないんだと。迷惑をかけられないんだと。「言ったよね?そういう店だって」と言われるが僕は店の名前も知らなければ場所も知らない。シェフがひとりでやっているとか知るはずもない。僕は遅れそうだということはメールしておいたのだから、そんなに心配ならその時点で店に連絡してくれてもいいじゃないか。「シェフに謝ってよね」はぁ?どうしてそこまで強要されなきゃいけないんだ。

 

もちろん遅刻をした僕が悪い。三時間前に待ち合わせ時間を指定された僕は、その時点で間に合うかどうか微妙だった。前もって連絡をしておこうかと思ったがやめた。その友達は遅刻魔でたいてい約束の時間に遅れる。今回もきっとそうだ。どうせ遅れてくるに違いない。待ち合わせの90%以上遅刻してくる友達だから「まあ、いいや」と放っておいた。ギリギリ間に合うかもしれないし。ちなみに僕は友達の遅刻を責めたことは一度もない。そういう人間だって割り切るようにしていたから。

 

今までお店は遅刻してもよかったけど、今回のお店は遅刻しちゃダメ。友達の遅刻は仕方がないけど僕の遅刻は絶対に許されない。シェフに頭を下げろと。そんな自分勝手なことがあってたまるか。たった一度の遅刻が許されないだなんて。しかもギリギリの状況を作ったのは友達自身だ。僕は三時間前までなんの情報も知らされていなかった。そういう人間だと思わせているのは友達自身じゃないか。これに懲りたから、今後は毎回遅刻してもいい店かを聞いてやろうと思っている。

 

この店は予約がとれずシェフひとりで切り盛りをしているので迷惑をかけられないという話だったのだが、この日は僕たちしか客がおらず貸し切り状態だった。この状況もなんだか納得がいかない。

 

自己啓発ツールとしてのブログ


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どうやらこのミニマムコラムというブログを開設してから二年が経ったらしい。はてなからメールが届いてはじめて気がついた。すっかり忘れていた。それくらいこのブログが僕にとっては当たり前の日常になっているということだろう。ブログを開設した当初は記念日にこだわりを持っていた。開設一ヶ月目、三ヶ月目、一年目。その節目には意識してそれに関連した記事を書いていた。二年目の今回は気付かされてもこうして節目の記事を書いている。

 

三年目を迎えようとしている今、なにか思うことがあるかといえば特にない。あえていうなら今度も継続してブログを育ててあげていきたいということだ。二年もほぼ毎日のようにブログを更新していれば愛着が湧く。ブログを育てるという表現をしたが、僕自身がこのブログに育てられている面もある。だけどもこのブログは僕自身でもあって、結局は自分で自分を育てているのだなとも思う。コンのブログは僕にとって自己啓発ツールって感じだろうか。他人が開催する自己啓発セミナーなど参加する必要はない。自分を磨くのは自分だ。

 

僕はブログを開設してから一年目のころまでは何度もブログタイトルを変更しようと思っていた。ありきたりではない変わったタイトル。僕らしいタイトル。候補はいくつかあったのだが、どれもしっくりこなかったので結果、今日まで「ミニマムコラム」でいる。個性的なバンド名にしようとどちらがバンド名でどちらが曲のタイトルだかがわからないようなバンド名が多くある。昨今ではそんなバンドが増えすぎて逆に没個性。逆に恥ずかしかったりもする。狙っても環境が違えば個性なんてあっという間に消える。

 

似たようなモノが増えると恥ずかしさを覚えるのはなんでだろうね。同じユニクロのTシャツを着ている人がいればなんだか恥かしい。それを仲間だとは思わない。ミニマリストも同様。マイノリティだったはずなのに増えすぎて特別な存在ではなくなった。「なんだぁ、結局みんな同じじゃん」だから、なにかに属し、特別な言葉で飾る必要はないのだと思う。誰かと比べて同じとか違うとかではなく、自分が納得し、それが他人にとって迷惑でなければそれでよいのだと思う。

 

僕は自分のブログに対し「とても自分らしい」と評価している。僕の言葉で書いている。アクセスアップを狙って記事を書くこともある。アフィリエイトを意識することもある。やはり多くの人にこのブログの存在を認識して欲しいし、それでお小遣いも貰えるのであれば、それはそれでうれしい。だけども書いていていちばん楽しいのは、自分の日常や頭の中の考えを何も考えずに記事にしているとき。ウケを狙わずにただただ書いているときがいちばん楽しい。そんなバランスを保ちながらこのブログを成長させていきたい。

無駄だと思うことも変えられないのが現実

出費

来月から余計な出費が少し減りそうだ。出向先には親睦会というものがあって、属すればいやおうなしに会費を徴収される。毎月800円。年間にすれば9,600円にもなる。まあまあの負担だ。来月には出向を解除される予定だからその出費がなくなるというわけだ。

 

この会を通じ会員の親睦を深め、業務を円滑に進めていく関係を築いていくことを目的とする。

 

会則に書かれてるのはこのようなことだ。もっともらしいことが書かれているが、ざっくばらんに言えば、その金で皆で飲み食いをするということ。春には年度始めの親睦会やお花見が実施される。夏にはビアガーデン、年末には忘年会が実施される。会費は500〜1000円程度と格安。皆から集めた親睦会費を補助にあてるのだ。

 

僕は一度も参加したことがないからその恩恵を受けたことはない。僕にとっては全くムダな出費となる。だったら参加すればいいじゃないかと思うかもしれないが、参加すれば更なる出費が必要になるし時間もムダになる。こういうものの元を取ろうとするのは間違い。

 

親睦会への強制参加は法律的には問題ないのだろうか?親睦会規則には強制参加をうかがわせる記述があるが、実際にはそのような強制力はないのではないかと思う。法律をたてに毎月の支払いを拒否してもいいのだが、面倒な人間だと思われたくないし、毎月数百円で円滑にいくのなら、この出費も仕方がないと思っている。僕が住んでいる地域でも自治会費を強制的に徴収されるが、それを仕方がないと考えるのと一緒だ。

 

 

親睦会があれば、当然それを運営する人がいる。会費を徴収、管理するのも大変だろうし、飲み会を開催するのも大変だろうと思う。できればやめたいと思っている人も多いのではないだろうか。飲みたきゃ勝手に飲め。そして、自分の飲み代くらい自分で払え。この親睦会を通じて社内旅行が企画されることもあるが、ここ数年は参加者が一定数に満たないため実施されていないらしい。飲み会くらいは付き合うが、休日を潰してまで社内旅行に付き合う義理はない。そんな感じではないだろうか。

 

PTAの負担を減らすために規則を変えようとした人がいる。大変だから役員になる人がいない。だったら、その負担を減らすために規則を変えましょうと。結果、規則の変更案は否決されたらしい。「私たちが役員をしていたときは大変だったのよ。その負担を減らすだなんてそんなのズルいわ」こんな理由がまかり通るのだ。そもそもPTAに無関心な人たちは投票に参加しない。反対するものは必死になり投票する。歴代の役員に逆らうようなことをしたくない人もいるだろうから反対にまわる。無関心は無言の壁となるから厄介だ。