ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

少なさを求めるようになった理由

マイホーム

数年前に亡くなった母は、たまに僕の夢の中に出てくる。実は生きていましたという設定。夢の中でも一度は死んだことになっている。そうなると僕は焦る。

 

「母さんが持っていたモノは全部処分しちゃったよ。今さら生きてますなんて言われても困るんだけどさ」

 

不審そうな顔をする母。バレている。母のモノを捨てたことがバレている。しかし、夢はそのうち覚める。「あぁ夢でよかった。死んでてよかった」などと親不幸なことを思う。

 

そんな夢を見るということは、僕の中のどこかに後ろめたい気持ちがあるのだと思う。現実には全く後悔なんてしていないのだけれど。きれいさっぱり処分できて清々しいのだけれど。

 

モノはいつか誰かが処分しなければいけない。できれば、そのモノを持っていた本人が処分することが望ましい。そう思うから僕はできるだけモノを持たない。誰かに処分させるだなんて。そんな面倒ごとは押し付けたくはない。

 

僕の両親は団塊世代の人だった。この世代の人間は必要以上にモノを持っているように思う。家の中にモノが入り切らなくなれば庭に物置を作ったりもする。お金をかけて家を増改築する。そこまでして持っておきたいモノなのか。壊れた家電や思い出のためにそこまでお金をかけるか。過去に執着するとやっかいだ。過去は日々増えていく。

 

近所でもいつのまにか物置を作っている家がある。他人の家だから、どうしようがかまわないのだが、その風景に僕は少しばかりガッカリする。シンプルでいい感じの庭だったのになぁと。

 

家というのは新築のときがいちばん美しいと思う。プロが設計した家であればなおさら。やっぱりプロなんだなぁって思う。プロが作る理想の家。そこには余計なものはなにひとつない。家の形と庭のデザイン。シンボルツリーは年月とともに成長する。成長した時のその姿。いろんなことを想像して設計をするのだと思う。

 

だけども、それはデザインとしての理想の姿。そこに住む人たちの気持ちはまた別だ。「こっちのほうが日当たりがいいから、ここに洗濯物を干そう」「車を洗う道具をここに置いたほうがいいから物置を作ろう」子どもが生まれれば、庭に三輪車が置きっぱなしになるだろうし、せっかく庭があるのだからとバーベキューセットを買えば、それが庭に置きっぱなしになるのだろう。そのゴチャゴチャを生活感という。傍から見ている僕にとってはその景色の魅力は薄れていくが、それは大きなお世話。

 

とはいいつつ、僕は基本的には新築に魅力を感じない。年月が経っても古めかしい感じのしない、むしろ魅力が増す家が好きだ。2階建てより平屋がいい。大正ロマンを感じるセメント瓦の家がとてもいい。デザイン的にシンプルで魅力がある。

 

自分で家を建てるならこんな感じにしようという理想は常にあった。絶対に平屋。理想の間取りをチラシの裏に書いてはニヤニヤしていた。だけども、今となっては家を持つこと自体あり得ない。持ち家なんかに生活を縛られたくない。今の家が住めないくらいに劣化したら、どこかへ引っ越すつもりでいる。

 

夢のマイホームという言葉がある。高度成長期のサラリーマンの夢。そのために定年まで懸命に仕事をする。汗水流し働く。給料の1/3を住宅ローンの返済に当てる。それが生きがいだったのだろうと想像する。家を買って、そこに愛すべき家族と暮らす。やがて子どもは独立し、その大きすぎる我が家を持て余す。ふたりの終の住処として減築する。

 

家を持つというのはお金がかかることだ。その家の中に詰め込まれた沢山のモノ。置ける場所が広ければ広いほど、モノは多い。夢のマイホームには沢山の幸せと沢山のモノが詰め込まれているってわけだ。

 

そして今、実家の片付けで悩んでる人が多くいるという。夢のあと。幸せが不幸せに変わってしまったのだろうか。幸せの形がかわっただけのことだろうか。誰から見てなにが幸せか。それぞれに幸せの形は違う。モノを持つことが幸せだった時代もあるのだろうと思う。それ以前はモノが少なかった時代だったから。

 

僕は生まれたときから多くのものに囲まれていた。ベビーベッドの上ではなにかがグルグルと回っていたし、手にはガラガラするものを持たされていた。成長してもモノで不自由をしたことはなかった。満たされていた。満たされすぎていた。だからなにが大切かがわからなくなっていた。モノが多い時代に育ったから、僕は今、少なさを求めているのだと思う。