ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

10万字の過去記事を消したら次が見えてきた

記事の削除

下書き記事のほとんどを削除した。下書き記事は400字詰原稿用紙250枚分もあった。ずっと気になっていた。いつか陽の目を見るときがくるだろう。ずっとそう思っていた。と同時に、そんな日がこないこともわかっていた。わかってはいたが、削除せずに今日まで保存していた。わかっていても自分を誤魔化し先延ばしにすることは多々ある。

 

古い記事の日付は今年の六月頃。梅雨の真っただ中に書いたその記事は、もうとっくにカビだらけになって使いモノにならなかった。

  

下書き記事を読み直してみても、それは今の僕の現実や気持ちとはちょっと違う。下書き記事をどうするか悩んでいた僕は、とりあえず記事のひとつひとつに目を通し、「捨てるもの」「とっておくもの」「とりあえず残しておくもの」と仕分けをしていた。そんな作業も次第に面倒になっていき、ほとんどの下書き記事を削除した。

 

なんだか気持ちがスッキリした。未練がましく下書きに保存していたときには、「なんだか、たくさん使ってない記事があるなぁ。」とモヤモヤしていた。それが、いつの間にか記事には目も通さず、サクサクと削除ボタンを押す作業に快感を覚えていた。これが捨て魔の気持ちというやつだろうか。

 

記事を削除しても金銭的な損失はない。時間的な損実はあるかもしれないが、それも記事を書くための練習の時間だと考えれば、決して無駄ではないはずだ。大会に出るために放課後の時間を使って練習に励む。それを見て「無駄なことだ。」と思う人はひねくれた人間を除いていないはずだ。

 

過去記事は実に恥ずかしいものだ。幼いころの自分の日記を見つけたときには、懐かしさによって、ほぁんとした気持ちに包まれるものだが、過去記事はあまりにも直近の自分であるので、気恥ずかしい。中には「こんな記事書いたっけ?」と首を傾げたくなるようなものまである。夜中にこびとがイタズラをしたに違いない。

 

かくして僕の下書き欄はスッキリした。着もしない大量の服を処分したときのようにすがすがしい気持ちになった。書きたいことは次々にあふれてくる。また下書き保存することになるかもしれない。そしてまた、それらの記事を削除することになるかもしれない。記事を消しても自分の気持ちが消えるわけではない。モノを処分してもその思い出が消えるわけではない。

 

400字詰原稿用紙250枚分の記事なんて、本一冊分に過ぎない。本一冊を捨てたに過ぎない。多くの過去記事を消したからこそ、今日の記事になった。やはり何事にも新陳代謝は必要なのだと思う。