ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

死から学ぶもの

生きる

「死んだら終わりなのだから、考えたって仕方がない。」という人がいる。死んで終わりなのは死んだ本人であって、考えている僕は生きている。だから、人の死を考えることに意味はなくはないと思う。悲しんだって仕方がないと悲しみを割り切れるほど薄情ではない。

  

そんな人の死を教訓にこれから自分はどう生きるか。人の死は自分が生きるための力になる。これからまた頑張って生きていこうというきっかけになる。それを力にできず、乗り越えられない人もいるのだろうけれど。

 

そうやっていろんな経験を経て僕は鍛えられていくのだと思う。すでに僕はいろんな経験をした。経験をした気になっているだけかもしれない。すごく悲しいこととか、すごくうれしいということが段々減ってきているように思う。増えてきているのは、理不尽なことばかり。

 

自分にとっての正解に反すると、理不尽だと感じる。なにも知らなかったころには、それが理不尽だとも思わない。大人のいうこだから、それが正解に違いないと、人の判断を頼りに自分の判断とする。他人にすがって生きてきた自分が、他人にすがらなくても生きれるようになったときに、自分以外のことがバカバカしく思えるのだと思う。

 

それっていいことなのだろうか?悪いことなのだろうか?変わったのは自分。それによって苦しめられている。自分で自分を苦しめている?割り切ったらラクになる?知らないふりをすればラクになる?自分を誤魔化せる?それって余計にツラくない?他人を理不尽だと思うことよりも苦しいことじゃない?

 

毎日毎日、こんなことを考えているわけでもなく、日々はぼんやりと過ごしている。普通に笑って、当たり障りのない会話を交わして、仕事が終わって350mlの缶ビールを開けて。今日も無事に終わったなぁなどと考えることもなく布団に入る。考えているのは週末のことばかり。予定なんてないんだけど。

 

死に対して強くなるって悲しいようだけど、それが普通なのかもしれない。自分が生きていれば人の死に関わることも多くなる。ニュースでは毎日のように誰かが交通事故で亡くなったとか、理不尽に殺されたなどと報道されている。でも、悲しくない。知らない人だから。当事者やその身内は悲しいだろうと思うけれど、その気持ちさえも一瞬で消える。それよりも数年前に亡くなった両親の死のほうが、僕にとっては未だに痛みを覚える出来事なのだ。でも、僕の両親の死が誰かに影響を与えているかと言えば、ほとんどの人には関係ない。知らない人のことだから。世の中ってそんな気持ちで溢れているんだと思う。誰もが大切な人の死を経験していて、誰もが悲しい思いをしているのだと思う。

 

僕は先日の3.11を迎えて記事を書いたのだがアップできなかった。そんな軽々しく記事にしてはいけないような気がしてしまった。そう思わせるくらいに大変な出来事だったのだと思う。