ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

昔から伝わる意識高い系の本が送られてきた

浄土真宗

先日、レターパックで荷物が届いた。

 

 「なんか買ったっけ?」

 

荷物が届くのはたいていの場合、ネットでなにかを買ったときなのだが、僕にはその覚えがない。なんだろうと思い、そそくさとそれを開封する。入っていたのが写真の二冊だ。

 

  • 日常勤行聖典
  • 浄土真宗のみ教え

 

お世話になっているお寺の先代の御住職の三十三回忌とやらで、その記念(?)に送っていただいたらしい。

 

「わー、モノが増えた。」

 

これが僕の第一声だった。いらない、こんなモノいらない。なぜ勝手に送りつけてくるんだ。これじゃ販売促進のダイレクトメールと変わらないじゃないか。押し付けになんともいえない違和感を感じる。

 

 「日常勤行聖典」という赤い本は、いわゆるお経が書かれているもの。これをもって、住職がことあるごとに「おつとめ」をされる。ここ一年くらいはおつとめの際に僕にもこの本が渡され、一緒にうたうように催促される。(うたうという表現が正しいのかはわからない。)お経なんてもちろん唱えたことがないものだから、声に出すのが恥ずかしい。お経にもリズムがあって、そのタイミングもよくわからないから、住職の0.5秒あとくらい後についてうたうことになる。

 

この赤い本は決してタタミの上に置かないように言われる。ありがたい本を地べたに置くなということなのだろう。そう言われているのに、親戚のおばちゃんはタタミの上に置こうとするものだから、僕はそれを慌てて受け取ることになる。普段は、人がいうことなんて気にしないのに、住職の言いつけはなぜか守らないといけないという気になる。僕の中で「住職」=「偉い人、ありがたい人」という公式が成り立っているのだと思う。そうか、僕も住職のような人を目指せば、人は言うことをきくのか。

 

 住職のような人になろうと思い立っても、一年やそこらでなれるものではないし、一生なれない可能性のほうが大きい。僕にはいつまで経っても欲はあるし、イライラ感も常に感じる。決して穏やかには過ごせない。でも、住職だってきっとそうなんだろうと思う。今の時代、坊主丸儲けというほど、懐豊かではないだろう。他の寺や上部団体との繋がりだってあるはず。誰かと繋がっていれば、必ずなにかが起こる。自分は他人ではないし、他人は自分ではないから、他人の考えなどわかるはずもない。こんなことを考えたって答えがないのはいつものことだよなぁ。

 

もう一冊の「浄土真宗のみ教え」という黒い本をパラパラとめくってみた。これが意外といいことが書かかれてあったのだ。図書館で意識高い系の本を借りて読むくらいなら、この本を読んだほうがよさそうな気がする。この本と僕との関わりについては、また後日のブログで。