ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

義援金に必要なもの

寄付

ずっと募金について書きたいと思っていた。そんなことを書くのもいやらしいなぁと思って書けないでいたけど、まあいいや、書こう。

 

震災が起きれば、必ず義援金という話になる。僕がはじめてなにも思わずに義援金を出せたのは、311の時だ。寄付となるとついつい「もったいないな」という欲が出てしまう。だけども、あれだけの被害を目の当たりにして、なにもしないわけにはいかなかった。あの時ばかりは、欲と格闘することもなくスッと寄付できた。仕事仲間で「十万円寄付しました」という人がいた。十万円なんてすげぇなと思ったのだが、同時に「自分でそれを言っちゃあねぇ」なんて思った。こういう話は人伝てのほうがいい。

 

今回の熊本地震でも義援金の呼びかけはあちこちで行われている。僕は本震の翌日に博多座にいたから、そこで寄付をした。そのときにちょっといいことがあったのは先日の記事の通り。でも、嫌なものも見てしまったわけで。

 

博多座では、幕間に役者が募金箱を持って客席やロビーをまわっていた。そこで年の頃70歳くらいだろうか、ひとりの男性が10円玉を手に持ち、自分の顔の前でユラユラさせているのだ。男性の2メートル前には役者がいる。「ほれ、寄付をしてやるから、俺のところまで取りに来い」と言わんばかりの態度。役者も無視するわけにもいかなかったのだろう。愛想を振りまきながら、その男性に近づく。「ありがとうございます」と礼を言われた男性は満足気。その姿はまるで疑似餌を使って獲物をおびき寄せるチョウチンアンコウのよう。彼は自分が満足することに終始し、義援金の意味なんて考えてもなかったのだろうと思う。そこに気持ちなんてなかった。

 

気持ちがないといえば、僕の所属する労働組合もそうだ。少し前に、重い病にかかってアメリカで手術を受けなければいけない子のために寄付の呼びかけがあった。その家族と個人的につながりのある方が会社の掲示板を利用して寄付の呼びかけを行っていた。その掲示内容から、なんとかその子を救ってあげたいという思いが伝わってきて、僕はその想いに感動して寄付をした。気持ちが伝わってくれば、これほどまでに素直に寄付ができる。ところが、所属する労働組合はどうだ。「上部団体で寄付することが決まったから。職場に寄付の袋をまわすから、お金入れてね」ときやがる。しかも、寄付なのになぜか個人名と寄付額を書けとまでいう。僕はそれには寄付をしなかったね。だが、皮肉なことにその強制寄付のほうが、圧倒的にお金が集まるのだ。個人の熱い想いより、組織の力。少なくとも僕は自分の意に反することには共鳴しない。