ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

自我コントロール

自我コントロール

僕の最後はどうなるのだろう。多くの人と同じように病院のベッドの上だろうか。「覚悟をしておいて下さい」という先生と家族の会話を聞こえないふりをして最後を悟るのだろうか。僕は昨日の続きで今日を向かえ、生きている続きで、そのまま死にたいと思っている。死んだことに気づかない。それは理想だが、そんなのは理想だ。

 

最後くらいは穏やかでいたい。そのためには今日を穏やかに過ごさなければいけない。今日が穏やかであれば明日も穏やか。その次はほんの少しイラッとすることもあるかもしれないけれど、明日になるとそんなことは忘れて、おとついの気持ちのまま過ごす。

 

若さというのは敏感だから、ほんの少しの言葉にも傷つく。相手は傷つける付けつもりもないのだろうけれど、そんな鈍感さは持ち合わせていなから、その言葉の意味を真剣に考える。僕が悪いのだろうか。大人のいうことだから正しいに決まっている。悪いのは僕だ。きっと僕だ。どうしたら正しい大人になれるのだろうか。正しくない大人の言葉を真剣に考える。

 

生きているとだんだん鈍感になる。少なくとも僕はそうだ。鈍感にならなければ生きていくのがつらい。毎日が酸素不足のように、ときには過呼吸のように息苦しい。鈍感になれない大人というのは生きることに真面目なんだと思う。真剣に考えて、その結果生きることが苦しくなる。今日も苦しい。明日も苦しい。明後日も苦しいことはわかっているから、今日が終わらないうちに自分の人生を終える。

 

生きることに真面目すぎる。真剣に考えすぎる。世の中ってのは不真面目なことだって多いから、むしろ理不尽のカタマリみたいなものだから。それと対等には生きられない。対等にはなれない。僕は小さすぎるから。大人の言うことは絶対だから。間違っているのは僕だって思い込まされる。僕以外の誰かのほとんどは僕のことなんて気にもしていない。僕だって自分以外の誰かのことなんて気にもしていない。数少ない友達を除いては。僕がいなくなったら、その友達は悲しんでくれるだろうか。僕はその友達がいなくなったら、きっと悲しい。しばらく思考が停止して、そのことを現実として受け入れたとき、きっと泣く。

 

感情と言うのは自分ではコントロールできない。自分で自分をコントロールできない。だから僕以外の誰かをコントロールしようなんて無理なんだ。こんな小難しいことを考えずにボンヤリと今日や明日を過ごせば、多くの人と同じように病院のベッドの上で死ねるはずだ。