ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

この記憶は本当に僕の記憶か?

君の名は。

物語で涙するということはよくある話で、その気持ちは過去の自分の経験とリンクしている。だけども、いつの頃のどんな経験とリンクしているかなんてわからない。大体が過去の経験などそのほとんどを忘れてしまっている。その涙で過去の出来事を思い出すなんてこともなく、ただただその物語に気持ちをもっていかれるのだ。

 

僕は人の名前を覚えるのがとても苦手だ。小中学生の頃の同級生の名前なんてほとんど覚えていない。数十年の空白がある同級生と街でばったり出会ってもわからないだろうと思う。

 

過去に実際、そんなことがあった。同級生は車の販売をしていて、僕はその客という立場。車を下見に行くのにネットで予約を入れた。その名前に同級生は僕だと気づいたらしい。車屋に行き、顔を合わせても僕は全く気がつかなかった。

 

「オレだよ、オレオレ」

 

対面式のオレオレ詐欺なんて斬新だなと思ったら、そうではなかった。同級生だったのだ。言われて記憶をたどる。過去にさかのぼる。

 

「あ、あぁ。ホントだ」

 

なにがホントなんだか。子どものころの彼の顔と大人になった彼の顔を記憶の中で照合させる。確かに彼だ。僕の同級生だ。しかし、僕は困ったことになった。車を買わざるを得なくなったのだ。下見をしたその車は僕にとっては70点くらいの車だった。ギリギリ合格。あと1点でも足りなかったら留年。合格してしまったものだから買わざるを得なかった。

 

言葉を交わしても気づくことない同級生。街ですれちがったくらいでは到底気がつかないだろう。相手は気がついていたかもしれない。だとしたら、それは僕の中にはない記憶。

 

記憶というのは実にあいまいなもので、たいていの場合、時間の経過とともに自分に都合よく書き換えられている。

 

「あのとき、お前から断ったんじゃないか」

 

記憶が一致しない。どうやら相手の中では僕が断ったということになっているらしい。そんな記憶は僕の中にはない。では、記憶の正解はどこにあるのだろう。その記憶を正したところで今日の僕はなにも変わらない。意地をはらずに相手に合わせたほうが物事はうまくゆく。

 

記憶の正解なんてものはどこにもない。ある時点で僕の記憶がそっくり書き換えられていても、気づくキッカケなどない。僕の中の記憶。どこまでが本当の記憶なのだろうか。

 

映画館を出たときに僕はそんな事を考えたのだ。今日、僕がなんの映画を観たのか。わかるよね?