ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

同じであることの安心感と閉塞感

スプーン

お店に食べに行ったときに家で使っている食器と全く同じものに出会うことがある。先日、カレーを食べに行ったときのことだ。

 

 「このスプーン、昔うちで使っていたやつと一緒だ」

 

僕が学生だったころから使用していたスプーン。僕のうちは四人家族で、それは六客あったから、100均のものではないはず。ナイフとフォーク、スプーン、デザートフォークが同じ種類のもので揃えられていた。実家でそれを使っているとなぜかダサくみえてしまうもので、僕はその柄があまり好きではなかった。母親のセンスには特に反発したくなる。

 

そのスプーンやナイフなどはすでに手元にはない。まとめてばっさり捨てるのは少々ためらわれたので、少しづつ捨てた。金属のそれは溶かされ、他の金属と混じり合い再利用されているはず。それがカレー屋で出会ったスプーンだったりしたら面白い。

 

「せっかく別のモノに生まれ変わろうとしたのに、またスプーンとしての人生を送らなきゃいけないのか」

 

生まれかわったからといって別のモノになれるなんて保証はない。生まれ変わっても同じモノになったのだとしたら、それこそが自分にとって最適な役割なのだ。使われないままに食器棚に眠っているより、カレー屋で活躍しているほうが華やかな人生でいいじゃないか。

 

僕はそのスプーンと出会ったときもやっぱりそれはダサいと感じた。一度、そういうふうに見てしまうと、なかなかその固定された視点というのはかわらない。 

 

同じように食器とも出会ったことがある。それは間違いなく100均で買ったもの。いかにも重厚感があるように作られているが、実に安っぽい。でも、僕はその価値を知らなければ立派ないい皿だと思ったかもしれない。

 

この国ってのは、どこにいっても同じようなモノで溢れているんだなぁ。