ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

正体がわかれば怖くはなくなる

仏壇

死が子どもの頃よりもこわくなくなりつつある。子どもの頃は実家やおばあちゃんちにある仏壇がなんとなくこわかった。夜、トイレに行くときになんとなく仏壇の存在を気にしながら、そのくせ仏壇の存在に気が付かないふりをして「大丈夫、こわくない」と心の中でつぶやきながら通り過ぎていた。お墓も同様。夜のお墓なんて行くことすらなかったし、昼間のお墓でも気味の悪さはなくなることはなかった。塔婆がお墓のごみ捨て場に捨てられているのをみて「これを捨てた家族は末代まで祟られるに違いない」などと思っていた。

 

それがいつからか、こわくて不気味な存在などではなくなった。死を経験し、それを身近に感じる機会が増えたからだ。愛犬が死にゆく姿をみても僕はどうすることもできなかった。ただただ体を撫でてやることしかできなかった。彼は僕のことをずっと見ていた。彼がこの世で過ごした最後の日、僕は彼と一緒にいた。ペットは何匹か飼ったけど、どいつもまあまあ長生きをした。そしてその最後を看取ることができた。

 

人間の死に直面したのは僕がまだ幼いときだったと思う。記憶も実におぼろげだ。ひいおばあちゃんだったと思う。生前に一度だけ会った記憶があるのだが、記憶にあるのは「会った」ということだけで、ひいおばあちゃんがどんな人だったとか、どんな話をしたかなんて記憶は全くない。次にあったときはお葬式だったと思う。昔だったし、田舎だったので自宅でお葬式をした。ひいおばあちゃんは家の横に穴を掘って棺桶ごと埋めた。土葬だ。そんな記憶がある。深くて大きな穴を見たという記憶があるのだ。今の日本で土葬だなんて。そう思ってネットで調べてみたのだが、今日でも法律上は土葬も認められてるらしい。

 

そうやって身内や会社の上司や友達など身近な人が亡くなって死は身近になった。こわいものでも恐れるものでもなくなった。仏壇で手を合わせる相手は両親や祖父母だ。ともに時間を過ごしてきた人たちだから、こわいだなんて思うはずもない。死は悲しいけれど、それと引き換えに様々な思いを残してくれる。「だから頑張らなきゃいけなよな」なんて。僕は残りの人生を恥ずかしくないように生きなければいけないと思っている。両親と顔を合わせたときに叱られたくないからね。