ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

映画「沈黙 サイレンス」の感想

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映画「沈黙 サイレンス」ポルトガルから布教にきた宣教師。隠れキリシタン。キリスト教を許さない政府。宗教とは何か。信じるべきものはなにか。人の弱さ。残酷な拷問シーン。二時間四十一分の大作ですが、あっという間。原作は遠藤周作の小説

 

この映画は宣教師を拷問するシーンからはじまります。宣教師を十字架に貼り付けにし煮えたぎるお湯を浴びせます。その他にも踏み絵を踏まなかった村人を荒ぶる波が打ち寄せる海辺に同じく十字架に貼り付けにします。死ぬまでの四日間、村人は苦しめさせられます。別のものは逆さ吊りにさせられ、頭に血が上ってすぐに死なないよう耳の後ろを切られます。そこから血が抜かれることで苦しみは続きます。これが仏教なのか?信念を守るためには人はここまで残虐になれるのか。

 

それほどまでに信念というものは恐怖なのか。人の心はそう簡単に変えられない。人は信じるもののためには頑なになれる。命までも投げ出すことができる。ときには争いをも招く。求める真理は同じはずなのになぜ啀み合いが生じるのでしょうか。

 

自分たちと異なるものは排除せよ。ごく自然なことかもしれません。異なるものが複数あれば、必ず無用な争いが起きる。それを防ぐために排除する。しかし政府は力ずくで排除することの限界を感じます。殺された宣教師は神となり、大衆の信仰心はますます強くなる。敵がいれば人々は一致団結し、それはますます強固なものとなるのです。そこで政府は宣教師に「転ぶ」すなわち棄教することを迫ります。

 

布教はあるものから見れば考えの押し付けですね。それが素晴らしいと信じて、他のものも幸せになれると信じて布教活動を行う。宣教師は仏教の国、日本にまでやってくる。キリストは邪教だというわけではない。否定をする気もないと大名の井上は言う。役人は実は物分りがよい。「ほんの少しだけ足をかければよいのだ。形だけのことだ」と踏み絵を促す。宣教師も命を落とすくらいなら踏めという。それでも頑なに踏まない村人は命を落とすことになる。信じるものは救われないのだ。死んだら天国に行けるのでしょう?そうして命さえも投げ出してくれる。神は無力なのだぞ。

 

大衆は自分たちで考えることをしない。ただ言われたものを信じるだけ。与えられたものを拝む。お上と大衆の違いは考えるものと考えないもの、その違いなのだ。考えて人の上に立つ。考えることをせず人のいうことを聞く。上に立つものは少しでも自分の優位になるようにと考える。そして上に立つものは富を得る。好きなだけ税金を取られても文句ひとつ言わない大衆。とことん搾り取ってやれ。

 

大衆は信仰そのものではなく、形あるものを欲しがる。「宣教師さま、拝めるものをなにか下さい」と。あるものには草で編んだ人形を。あるものには数珠の玉を。おぉ、ありがたやと単なる数珠の玉を拝む。信じるべきものは自分の心の中にあるのではないか。形あるものを信仰することは恐ろしいこと。形あるものはいつかはなくなるのだから。

 

日本は日ノ本の国。崇めるものは太陽だ。人ではない。人は神にはなれない。自然を信じる心。キリストは人だ。神ではない。泥沼にいくら苗を植えても育つことはない。育たないままに根から腐っていくのだ。

 

沈黙。神は人々を救わなかった。いや、神は無力ゆえ人々を救うことなどできなかったのだ。神を信じて踏み絵を踏まなかったばかりに人は殺された。単なる板切れを踏めなかった。ただそれだけのことで。宣教師は最終的には棄教することになる。郷に入っては郷に従え。それで平和は訪れる。

 

僕は無宗教です。無宗教という名の宗教。僕はそれを信じている。それを否定されたら、もしくはなにか特定の宗教を崇めろといわれたら、、、僕は必死に抵抗し戦うと思う。