ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

善意と悪意の表裏一体

プレゼント

今、「火の粉」という小説を読んでいる。一家三人を殺した容疑で捕まった男は無罪になる。その裁判で無罪を言い渡した裁判官を自分の仲間だと信じ、隣に引っ越す。偶然を装って。男は隣人として必要以上に親切に接する。しかし、同時にその家族の日常は崩れ始める。自分にとって味方だと判断した人間には徹底的に尽くす。裏切りは許さない。どんな些細なことでも。邪魔だと判断した人間は排除する。どんな手段を使ってでも。

 

僕はこの小説を読んでいるときに、あるひとりの人物を思う浮かべた。会社でお世話になっていたある女性だ。その方は一年前に定年で辞めている。僕はそんなお年だとは知らなかったのでビックリした。数年前までは異常なほどよくしていただいたのだが、定年一年前からは全く無視されるようになった。

 

昼の弁当の注文を僕はしばらく彼女にお願いしていた。昼休みになると僕は彼女のところまで弁当を取りに行く。すると弁当にお菓子をつけて手渡ししてくれるのだ。他の人は自分で好き勝手に持っていく。僕もできればそうしたかったのだが、僕の弁当は彼女の机に上に確保されており、勝手に持っていけない状態になっている。昼休みまで仕事が長引けば取りに行くのが遅くなる。彼女は甲斐甲斐しく待っていたのだが、それが僕にはプレッシャーになっていた。

 

弁当は注文する場所によって内容が異なる。いつも同じ弁当だと飽きるので、たまには違うものをと別の場所で弁当を注文することにした。すると、それが気に入らなかったらしい。それをきっかけに僕は無視されるようになった。どうして、こんなくだらないことで無視されなきゃいけないのだと思った。だが、彼女のよくない噂は知っていたので、実に彼女らしい理由だとも思った。彼女にとってはそれが裏切りだったのだ。こんなに尽くしているのにわたしを裏切るのねと。

 

それまで僕は彼女に異常なまでに可愛がって頂いていた。きっかけは彼女が僕の職場に配属になったときのことだ。僕はその時、職場のお世話係のようなことをしていて、配属になったばかりの彼女に声をかけたのだ。「なにか困ったことがあったら言ってくださいね」と。それにいたく感動したらしい。今までそんなふうに声をかけてくれる職場はなかったと。それから怒涛のプレゼント攻撃がはじまった。最初は職場で食べるおやつにケーキを買ってくれていた。余ったら持って帰りなさいと言われ、いつも持ち帰っていた。四つも五つもあるのだから一日では食べきれない。

 

食事にも誘われた。味覚が合う人だから楽しかった。いつもそれなりのお店に連れて行ってくれた。しかし僕には一銭も払わしてはくれなかった。「最初にいっておくけど、私は奢ってあげるのが好きなの。だから絶対に支払いするとか言わないでね。約束だから」本気モードでそう言われたのを今でも覚えている。最初の頃は遠慮もしていたが、次第にそれは当たり前になっていた。その状況に慣れてしまい彼女の財布から支払いをしてもらっているということも忘れていた。

 

手土産も凄かった。中にはお菓子やワイン、雑貨、本などなど。それを紙袋に四つも五つもくれる。とても一度に運べる量じゃない。部屋は一気にモノで溢れかえる。土用の丑の日にはうなぎ弁当を。年末休み前にはおせちを。「うわぁ、ありがとうございます」と大げさに喜ぶのだが、その一時間後には家で「さあ、どうしよう」と悩むのである。

 

彼女についてよくない噂も聞いていた。好き嫌いが激しい人で嫌いな人は徹底的に無視をする。同僚の女性は嫌われていた。彼女はみんなにお菓子を配るのだが、その女性だけは配られない。そんなことをあからさまにしていた。一緒に食事に行ったときのこと。彼女はその女性の悪口を言い始めた。

 

「あの人はね、前の職場で新入社員を虐めていたんだって。若い子はチヤホヤされるじゃない?それが気に入らなかったみたい。虐められた子は精神的に参っちゃって。その子から相談を受けたこともあるのよ。彼女は自分が中心じゃないきゃ気がすまないのよ」

 

この話は僕がその女性に抱いていた印象とはずいぶんと違っていた。その女性は彼女の虐めに参っていて崩壊寸前だったよう。僕自身も避けられるようになってきた。僕と会話をすると更に虐めらると怯えていたらしい。別の同僚はそんな事態を知って上司に相談。結果、彼女は別の部署に異動になった。自分が中心じゃなきゃ気がすまないのは彼女自身だった。

 

彼女は嘘をつくのも下手だった。都合の悪いことになると「えー、知らない」とモゾモゾしはじめる。明らかに様子がおかしかった。僕が炊事場で手を洗っていたときのこと。その炊事場には鏡がある。その鏡に一瞬彼女が映った。そして彼女はなにを思ったか柱の影に隠れた。僕が手を洗い終えるのをジッと待っている。鏡にその姿が映っていることなど知りもせずに。僕は手を洗い終え、その場を立ち去ろうとすると彼女も動き出した。「あら、ちょうどよかった。お菓子をどうぞ」平然と彼女はいった。ずっと待ち構えていたくせに。僕は薄気味の悪さを感じた。

 

その後も彼女の悪い噂は耐えなかった。ある飲み会に参加したときのこと。彼女と僕が知り合いだとその人は知らなかったのだろう。彼女のよくない話をしはじめた。彼女がいかに悪意を持って人を虐めているか。僕は黙って聞いておくことしかできなかった。

 

好きな人には徹底的に尽くす。きらいな人は徹底的に虐める。僕自身は大変よくして頂いていたので、その関係をあえて断ち切ろうとは思わなかった。そういう人なのだと割り切っていた。 こんなにもよくして頂いた僕でも、こんな些細なことでブツリと関係を切られてしまうのだ。でも、これでよかったのかもしれないとも思う。だからといって今までの彼女の善意を否定するつもりはないし、それはそれで感謝しています。ありがとう。そして、さようなら。