ミニマム コラム

執着せず。最低限のモノで。日常の共感。

さみしさの正体はわからないまま

きみの言い訳は最高の芸術

きみの言い訳は最高の芸術」という本を読んでいる。映画「夜空はいつでも最高密度の青色だ」を観る機会があって、そのときに最果タヒという人を知った。

 


この人のサイト(最果タヒ.jp)を訪れたことがあるのだが、どうしていいんだかよくわからないつくりになっている。独自性を出したいのだろうけど、独創的過ぎて「なんですかこれは?」という印象。前述のリンクから訪問してみてください。

 

映画をみたときには「青臭いな」と感じたりもしたのだが、本も出版されていることを知って図書館で借りてみた。それが「きみの言い訳は最高の芸術」だ。ブログをまとめた本らしい。だったらブログを読めばよかった。

 

私が一番さみしいと思ったのは学校に通っていた時だったし

最果タヒ「友達はいらない」より

 

この一行に凄く共感して、僕はこの一行に関する感想を書きたかった。僕はこの感情をどこかに置き忘れたようで、ふだんの生活でさみしいと感じることはない。大切な人が亡くなったときの感情もさみしいというよりは悲しいという表現のほうがしっくりくる。

 

どこにこの感情を置き忘れてきたのだろうか。それはきっと小学生の高学年の頃。それを認識させてくれたのが、この一行だった。

 

小学校に通っているときは、それなりに友達もいたのにさみしいという感情に包まれることが多くあった。たくさんの人の中でひとりぼっち。さみしかった。別にいじめられていたわけでもないし、無視されていたわけでもない。普通に学校生活を送っていた。

 

僕は自分から進んで輪の中に入っていくのが苦手なタイプだった。今でもそれは苦手で、入りたくない輪の中に無理に入ることはないということに気が付いてからは、苦手意識もなくなった。

 

友達はやさしくて、そんな僕を輪の中に入れてくれていた。当然、そんな僕を邪険にしようとする人間もいたが、現実にはそうされることはなくて、いつもなにかに守られていたような気がする。

 

そんな狭い生活から徐々に生活範囲は広まっていき、僕は自分自身で取捨選択ができるようになっていった。捨てるもののほうが多かった。そのほうが楽だったから。

 

さみしさの正体はわからないまま、僕はそれを子どもの頃に置き忘れてきた。それは僕自身が選んだ方法だったのか。

 

たまに「あの気持を取り戻しにいきたい、センチメンタルな気持ちに浸りたい」なんてことも考えるけど、「まあ、今のままでいっか」とも思う。